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No.2「 「喫茶」の歴史と「抹茶」になるまで」

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〜 連載 学び舎〜

No.2「 「喫茶」の歴史と「抹茶」になるまで」




「茶の湯とはただ湯を沸かし 茶をたてて飲むばかりなり」
私達には馴染み深い利休道歌です。私達は茶道を通して様々なことを学びますが、何より心をこめて一碗を用意するということは、誰もが心掛けていることだと思います。それにしても、「ただ~ばかりなり」と分かっていても簡単なことではありません。湯の温度、抹茶と湯の相性、茶筅の動き……ちょっとしたことで味は変わります。今回は、「抹茶」が登場する前後の歴史と日本での様子をまとめてみました。

中国のお茶
 茶の木は、はアッサム種と中国種の二種に分類されます。日本で栽培されているのは中国種です。まずは、日本の抹茶の源流を中国の主な文献に求めてみます。
 唐の時代に流行した喫茶の様子が分かるのが、陸羽の著した『茶経』です。この時代は餅茶(平たく乾燥した固形茶)を粉末にしてから煮出す煎茶法で、雑味を出さないように温度調整に細心の注意を払った様子が分かります。宋の時代に入り、1046年に蔡襄が『茶録』を著しました。この時代は、団茶(ねり固めた固形茶)を粉末にし、茶匙でかき混ぜたとあり、茶と湯が分離しないまでに混ぜたものが素晴らしいお茶と書かれています。その約50年後、徽宗皇帝の著した『大観茶論』に書かれている喫茶法も、粉末の茶と湯を書きかき混ぜる方法ですが、茶筅についての記述があり、「竹の枯れたもので作る」と書かれています。

日本のお茶
 この、『茶録』と『大観茶論』の間の50年間に、抹茶が生まれたと考えられています。さて、この抹茶法を日本に伝えたのが、1191年宋から帰国し、建仁寺を開山した栄西です。
著書『喫茶養生記』の中で、自身が宋で見た碾茶(抹茶になる前の葉茶)の作り方を記述しており、栄西の伝えたお茶は抹茶とされています。この後、明恵上人によって、京都栂尾に茶園が生まれます。その後、将軍足利義満の室町時代、宇治に御用茶園を設けることになると、宇治は栂尾を抜いて抹茶の産地になりました。
 宇治茶で行われたお茶の製造上の革新が覆下栽培です。茶摘み前に茶畑を葦で覆い、日光量の調節をします。これは、茶樹が日光を浴びて、芽が硬くなるのを防ぐためと、旨味成分であるテアニンが渋み成分であるカテキンに変化するのを抑えるためです。元々は霜を防ぐために覆われていたようですが、それが味をよくするということを経験的に知っていたのではと考えられています。煎茶の場合は露地栽培で日光を当てるので、煎茶独特の渋味が生まれます。茶葉は摘んだ瞬間から酸化発酵が始まりますが、それを止めるために摘んだ後はすぐに蒸します。
  抹茶と他の茶の製法の違い
   抹茶…覆下栽培→蒸す→揉まずに乾燥させて碾茶にする→茶臼で磨る
   玉露…覆下栽培→蒸す→揉んで乾燥させる
   煎茶…露地栽培→蒸す→揉んで乾燥させる

美味しくお茶を
 お茶が健康に良いことは言うまでもありません。カテキンやビタミンEやカロチン、またリラックス効果があるテアニンが含まれています。それらを余すことなくいただくことができる抹茶は、特に優れていると言えます。
 抹茶はきれいに点てたほうがおいしいということを実証するために、細かい泡を作って点てた抹茶と、荒く大きな泡で点てた抹茶を比べてみたという文章を読みました。すると、泡が荒い抹茶のほうが渋味を感じるタンニンの量が多かったそうです。そこで、実際に試してみました。
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意識して点てたせいもあるでしょうが、やはり、きれいな泡のほうがおいしく感じました。
 ただ、流派によっては泡を点てない場合もありますが、たいへん美味しく頂きますよね。泡を点てる、というより、泡を点てるような茶筅の振り方、気持ちの入れようが美味しさをもたらすのかもしれません。『茶録』にあるように、茶と湯が融合するように心をこめて、お茶を点てることを心掛けたいと思います。まだまだ寒さが続く北海道ですが、栄養たっぷりのお茶で心も体も健やかに保ちたいものです。